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震災の記憶

震災直後に現地入りした社員の体験談

顧問 堀 剛(当時:第一営業部部長)

 震災当日は新潟本社で社内業務を行っていました。突然の揺れと次々テレビに映し出される各地の惨状を目の当たりにし、呆然とするばかりでした。
 幼少の頃に新潟地震を体験した時の怖かった記憶が蘇りましたが、その時をはるかに上回る強烈な光景でした。
 この数日後、高速道路工事の関連資材を納入する予定となっていました。
 開通期日も公表され、工程も余裕が無い中 納期遅延は絶対に許されない状況でした。
 使用する材料の一部を登米市にある工場が製作していたという事に気付き、早速メーカーの担当者と連絡を取りました。
 納材ができないとの説明を受け、当社にとって深刻な事態である事を認識しました。
 当然現地との連絡は取れず、月曜に工場出荷を予定していたとの事でしたが、互いに解決策も浮かばない中、とにかく発注者に対する状況説明を行わなければならない、その為には工場の現況を早急に確認してこようとの合意の上、週明け月曜日朝6時にメーカ担当者と待ち合わせ、国道113号線を山形経由で現地に向かいました。 
 新潟県を抜ける手前でガソリンを満タン給油しドライブナビを頼りに進みましたが、現地に近付くにつれ道路の寸断等で何度か後戻りを繰返しながら、やっとたどり着いたのは出発から6~7時間後であったと思います。
 工場の入口に到着し閉まったままの門の前に立ちましたが、全く人の気配はなく、ただ、敷地内に出荷待ち状態の製品がある事は遠目に確認できました。
 たびたび余震が起きる中しばらくすると一台の車が門の前に停車し20~30代位の男性と母親と思われる女性が降りてきて工場内の様子を伺っていましたので、声を掛けた所男性が工場の従業員である事、家が流されながらも車が無事であった事、父親が流されてしまった事、工場の仲間が無事かどうかの確認に来た事 等々を聞きながら、一瞬にして全てを失ってしまった事に対する理不尽さと、近しい人達との死別がこんなにも身近でおきてしまっている事に対し掛ける言葉がみつかりませんでした。
 もしもの為と自宅から持参したカセットコンロ、乾麺、レトルト食品、懐中電灯、飲料水等を手渡した後に新潟へ戻り発注者に対し状況説明を行った所、結果はやむを得ないとの理解を頂き後日納品を完了しました。
 私は今、地震後に開設した仙台営業所に赴任しています。
震災直後に現地で倒壊した家屋、決壊した河川、寸断された道路を見て、又、被災した家族の話を聞いた事を昨日の事の様に記憶しており、今も思い起こすと胸が痛みます。
 今後は被災した方たちが一日も速く安定した穏やかな生活を迎えられる様に復興に関わる仕事に対し、より一層の注力をしていきたいと思っています。

顧問 塩原 昭博(当時:第二営業部長)

3月17日には内装材4tを車で仙台市に搬入し、22日より作業員を派遣。地元スーパーの復旧の為1ヶ月強応援をいたしました。トイレの水も出ない宿泊所で、宿泊所の暖房用の灯油も新潟から持ち込みました。夜中に余震で外に飛び出したこともありました。日中復旧した工事も余震で翌日にはまた1からの作業も何回もありました。

仙台営業所開設

 半年が過ぎ緊急復旧も落ち着くと、現地の工事会社も働き始め、当社への依頼も減っていった。やはり現地に人がいなければ役に立てない。震災から約1年後、仙石線陸前高砂駅近くのアパートを借り、交代で常駐体制を取り顧客対応を開始した。
(当時は住宅供給が逼迫し、依頼していた不動産会社から、今決めてもらわないと他へ回すと言われ、現地も見ずに賃貸契約を結んだ)
 現地での採用も進め、鹿島建設東北支店OBの方にも顧問として来て頂くなど、コバリキとして20年以上ぶりとなる拠点新設へと歩みを始めた。
株式会社コバリキ

〒951-8052
新潟県新潟市中央区
下大川前通四之町2185番地
TEL:025-222-5121
FAX:025-229-5621
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